昭和49年01月20日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をして おらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見て おる。しっかり信心の帯をせよ。」
しっかり信心の帯をしておきませんと、人に極端な表現でしょうけれども、乞食のような奴じゃと言われたり、泥棒だと言われたりしたら、やはりカッとくるでしょう。腹が立つでしょう。ところが信心の帯がしっかり出来ておる時には、それが神様が知ってござる。神様が見ておいでだという実感が強いですから、却って相手の事を祈ってやるような心すら出来てくる。
昨日ある方が、よく似たような事で失敗をしたと言うです。それがどう言う事でかと言うと、朝あれほどしの有り難い御理解を頂きながら、ただ漠然と有り難いと頂いておるだけで、み教えの整理が出来ていませんでした。自分の心の中に。例えば昨日の御理解の中から、はぁ今日はここが頂き処だと言った様なものをです。それはそれぞれに頂いておれば、失敗する事はない。
ただ有り難いと、有り難いみ教えだと思うて頂いただけで、それを整理が出来てなかった。勿論その後には平生にならせて頂いたけれども、例えていうなら乞食じゃと言われたり、泥棒だと癇に触る様な事を態度に取られたり、言われたりした時にカッと来てる。そしてすぐその後に思うておる事は、はぁ今朝の御理解がよく消化出来ておると云うか、整理が心の上に出来ておったら、全然問題ではない事が、こんなに一時でも腹が立ったり歯痒い思いをしなければならない。
御理解の整理が出来ていない。私はしっかり信心の帯をせよと言う事は、教えがそういう風に整理が出来ておると言った様な時が、信心の帯がしっかり出来ておる時だと思います。それが出来ていないからカチッとくる訳です。そしてハッと自分にも気がついて、朝の御理解を思い出させて頂いたらです。何でもないというか却ってお礼を云わねば、ならない様な事に腹が立ったり、カッときたりしておると言う事です。
昨日ある方がお届けに来ました。その方のご主人は九州の方ではありません。大変遠方からこちらへ見えておられる。奥様はこちらで一緒になっておられるわけなんですけれども、久しゅう帰っていない里のお母さんが、大体具合が悪かったんですけれども、危篤状態だから、すぐ帰れという電報を受けられた。それでお父さんが奥さんに、相当まとまった何十万お金をすぐ作れと。すぐ行くから出来れば、お前も子供達も一緒に行きたいから、すぐ金を作れとこう云われる。
そげんあなた目ん玉に指突っ込むごと、そげな大金を言いなさったっちゃと言うたら、カンカンになって主人が怒ったとこう云うのです。長い間里にも帰っていない。本当に死に目に逢うか逢わないか解らない。最後の親孝行を主人がしようと思うておる所へ、はぁそうですかそんならなんとかしましょうと。それこそ山内一豊の妻じゃないけれども主人の愈々の時にです。そげんあんた目ん玉に指突っ込む事言いなさったっちゃ、何の為に日頃働いておるか。何の為に俺はお前の親やら兄弟やらにでも尽くしよるか。
俺が偶々里に帰ろうと思うておる。しかも只で帰るとじゃない危篤状態にある母親に、一目でもお前達も子供達も逢わせたい。そしてもし場合の時にゃ本当に恐らくそういう体験ですから、是は私は想像ですけれども、お葬式でもせにゃならんごたる時には本当に日頃、親孝行が出来とらんからこげん時なっとんもし生きておるとするなら、親の好きな物のどんな高い物でん一つ買うて与えて、親孝行したいというそう言う様なものが、一杯ではなかったろうかと思う。日頃大変大人しいご主人なんです。
よく働かれる方なんです。奥さんも決して悪い方じゃないです。日頃円満で仲睦まじゅう行っておられる家なんです。けれどもそういう時にです、本当に主人がですね、物見遊山に行くとか、どこに遊びに行くから金作れとか、借金払いの為どうというのじゃなくて、日頃出来ておらん親孝行をこの際しとかにゃ後で後悔する様な事が、あっちゃならんから、とにかく金を作ってくれと云うておられる時にですね、それこそ自分の着物でも、質に置いてからでもです。さぁお父さん行ってきて下さいと、言う様な生き方がです。日頃信心がその場で生きてこない。
本当にそうでしょうね。私で言うならば家内の親という時に、私が一生懸命になったら、家内はこんなに嬉しい事はなかろうと思うです。又私としても家内がここの親に一生懸命尽くしてくれるなら、それこそ後ろから合掌して拝みたい様な気がするです。私はそういう時にです。本当に主人を腹かかせんで済む様な信心を日頃頂いておきたいと。ま一つの例ですけれども咄嗟の場合。これは例えば悪口とか、そう言う事じゃないけれども、常日頃しっかり信心の帯をせよと。
というてこの方が信心が出来よらんかと言うと、やっぱ毎日お参りをしてきよる。毎日お参りはしてきよるけれども漠然としておる。夕べの夜のご祈念を末永先生が当番でしたからご祈念をしておる。そして皆さんにお話をさせて頂いておる中にです。はぁ今日の御理解は有り難い御理解だった、有り難い事を解らせて頂いたと言うのとです。その教えが、血になり肉になるというのは別ものだと感じると言う事を話ておりました。今日の御理解は本当に深いまたは広い。
今まで気が付かなかった様な所を分からせて頂いたというのと、その教えがそのまま血になり肉になるというのは別だと。私は信心と云うのは教えが血になり肉になる事だと思うですね。只お話しを沢山頂いて信心の物知りになるとか、信心が功者になると言う事だけじゃない。信心が血に肉になっていくと言う事教えが。それにはです頂いたみ教えの、今日の○○さんじゃないですけれども、整理が出来ていないから咄嗟の時に、後はあぁすまじゃったという気にもなろうけれども、もうそれじゃ遅い。
折角朝参りをさせて貰う修行させて貰ってそして教えを頂いたら、その教えが自分の心の中に整然とです整理が出来なければならない。そして今日は是で行こうという姿勢を作っておらないから、ここでこう云や主人が喜ぶこう云や腹を立てる。分かっておってもそれを主人が喜ぶ様な受け方が出来ていない。昨日三代金光様のご一代の事を大変詳しく書いたご本をこの頃頂いております。こんなご本なんです皆さんもぜひ一つ買い求められて読まれると、本当に何とも云えん味わいの常の御姿とでも申しましょうか。
金光様の日々の事が書いたあります。中にある先生が御神米の事についてお尋ねをすると、それに対する三代金光様のご返事というか、お言葉が書いてあります。それを書き移させて頂いた。これを書いてから、昨日修行生の方たちに話してから、うちの神撰室にこれをいっちょ貼っとかにゃならんと云うてから、書かせて頂いたんですけれどもね。御神米の事についてお尋ねするとそれはお初水、水のお初穂ですね。お初水を汲んで朝御神米用にお供えしておいて左手で掻き混ぜながら払いたまえ。
清めたまえと唱えて菓子桶でお米をよく洗い。水を切ってからお初水をかけ、その水が切れたら御神酒をかけてよく乾(ほ)してから、それを入れさせて頂かれればよろしいと仰いましたという、是だけの事です。皆さん是を聞いて頂いてどこが一番、有り難いと思うですか。それはお初水を汲んで朝御神米用にお供えしておいて、左手で掻き混ぜながら払いたまえ、清めたまえと唱えて、菓子桶でお米をよく洗い、水を切ってからお初水をかけ、その水が切れたら。
御神酒をかけてよく乾してからそれを入れさせて頂かれればよろしいと仰いましたとあります。私は何かここを読ませて頂いた時に、本当に自分の信心の間違いだらけの事を感じました。この金光様のご返事このお言葉の中から。こういう是は御神米を調整の事だけではごさいません。日常がですこういう生き方に、朝から夜までの事がです、この中に込められておる、金光様のお心に対して、私どもは生活をさせて頂くと言う事がです、私は信心生活だと思いました。
それはお初水を汲んで朝御神米用にお供えしておいて、左手でかきまぜながら、払いたまえ清めたまえと唱えてとあります。これはどういう訳で左手であろうかと、私は思うてみた。普通はお米仕込む時は皆さん右でしょう、やっぱりね右でこう仕込まれる。しかし金光様は左手で洗えと。これはここあたりではしゃもじで洗います。御神飯を炊くでも毎朝手を使いません。わざわざ御神米なんかは、それを洗う道具が出来ておる。教会あたりは作ってあります。けれども左手を使うと言う事。
しかも払いたまえ清めたまえと唱えて、菓子桶でお米をよく洗い水をきってから、お初水をかけその水がきれたら、御神酒をかけてよく乾してからそれを入れさせて頂かれればよろしいと。信心生活を私共の日々の生活の中に、これを頂きますとです。云うならば完璧とまで思われるほどしの、行き届き方考えられ方。例えば御神米と云えば人の無い命でも、御神米によって助かるというほどしのもの。私どもの言葉一つがです相手の心を傷つけたり、殺したり。言葉一つで相手がはぁおかげで助かった。
おかげで暗い心が明るくなったというほどしの言葉を使わせて頂く。一つの事でもです知ってはおっても、自分の心の中にです、信心の帯がしっかり出来ていないと、それがその様な風に出てこないのです。口を開けば人の心を暗くする様な、傷つける様な場合には、メッタ切りに切り刻みする様な事が、口から出る様な事では信心の帯をしっかりしておると言う事は言えません。またそれとは反対にです、泥棒だと言われ乞食だと言われる。云うならば一番汚い一番悪い悪口と言う事になりましょうか。
そういう時にです。私共が咄嗟に神様が見てござるという実感。神様が知ってござると言う事を、自分の心の中に信じて感じておられる時であったらです。人が例え乞食じゃと言われても、ニコニコしておられるのじゃないかと。俺がいつ乞食をしたか、いつ俺が泥棒したかと言わんで済む。その次には、おかげの世界があります。それは自分だけではありません。自他供に助かって行く働きがあります。例えば盗人じゃと言われ、乞食じゃと言われ、成程盗人はしていないでしょう。
泥棒はしていないでしょう。成程貰いに歩いてはいないでしょう。けれどもこう言う事は信心ではない。こう言う事は信心しておって、あってよかろう筈はないと言う様な事を、ある場合には、それを平気でやって退けておる所に、腹の立つ元があります。泥棒はしておりませんよ。貰うて歩いてはおりませんよ。けれどもそれに匹敵するほどしの、信心しておってそんな考え方。
信心しておってそう言う事をしておる。信心しておって教えには全然反しておるという。そういう生き方が咄嗟の場合に有り難く受けられなかったり、咄嗟の場合に腹が立ったり、咄嗟の場合に人を傷つける様な、心を暗くする様な事を言うたりしたりする様な結果になるのです。今御神米調整、御神米を作る、云うならば心掛けとも、又はそれを実際に行わせて頂くと言う事を、徹底してかくあれと教えておられるような、そういう日常茶飯事の中に、そういう生き方と言う事はです。
この御神米私はははぁ是はよか事を教えて頂いた。だから御神米のお米(よね)を洗う時にはこの通りの事をさせて頂こうと云うたら、一つも難しい事はないでしょう。今まで右手で洗いよったとを左手で洗えばいい。今までお神酒さんをかけていなかったなら、お神酒さんをかけたらよい。ちゃんとお米(よね)を洗う時には、朝のうちにお初水を汲んでおいてから、そしてから次の行動に掛ったら良い。しかも、左手でかき混ぜながら、ただ払いたまえ清めたまえと言うたらよい。
それだけの事ですから。それを実行しない所にです咄嗟の場合に、信心が役に立たないと言う事になるのです。是だけの事が込めてあるから、いうなら医者が見放した病人でも、一粒の御神米によって助けられると言う様なね。この頃伊万里の御信者さんじゃないですけれども、一週間も仮死状態であった。それが御神米によって助かった。自分では頂いておるかどうか分からなかったけれども、夢現の中に御神米がここにお祭りしてある御神米が、重たいほど感じた。
その重たいというのは苦しいのじゃない。何ともなしに神様と言う事は分からんけれども、何か尊い有り難いものが、ここに乗っておるという感じであった。そしたら意識が出た時には、ここに御神米があった。その御神米を一粒頂いてからおかげを頂いた。一粒の御神米で命が助かった。その元旦の朝でしたよ是はね。元旦の朝に長々と手紙を書いて、一粒のご神米と言う事で、作文しておられる手紙を寄せておられます。と言う様にです、そういう働きが出来る。
これを私は今日は、御神米だけの事ではない。私共の信心生活というものは、教えを行ずると言う事は決して難しい事ではない。当たり前の事を当たり前にさせて頂く以外になんにもない。その当然の事当たり前の事を疎かにしておる所にです。それが積り積り溜り溜って、帯が緩んでしまっておる。そして咄嗟の時におかげを受けなければならない。私は今日御神前でお乳を与える、子供を持っておる親の様子でしょうね。お乳をこんなに張らせてね、もうポトポトお乳が雫が落照る様な感じのお乳の様子を頂いた。
そして私がこげん張っとんなら痛かろうと、こう思う様な情景を頂いた。天地の親神様がです。それこそここへ縋ってくりゃ飲んでくれと頼みござると。飲んでくれなければ親の方が痛くて苦しんでおられると言う事。それを縋って飲ませて頂く時に、子も助かりゃ親も助かるという道が開けてくると言う事。私は毎日皆さんが、こうして寒修行でお広前いっぱいこうしてお集まりになる。それでまずお届けにかかる前に、ずうっといっぺん通りこうやって見るんです。
はぁ今日は誰々さんが参って来とんなさるなぁと。そして当然この人達はお参りさせて頂かなければ、この寒修行に参加しなければおられない。おかげを頂いてお礼参拝させて貰わにゃおられないという人達の姿がない時に、非常に淋しいですね。悲しいです。神様は御膳立てして待ってござる。そして今位な事。少しばかりのおかげに腰掛けてしもうて、ここで幹部だ、総代だと言われる様な人達がです。当然率先してこの寒修行に参加しなければおられない筈の人達が、その修行に参加してない来てない。
私が淋しいと思う。悲しいと思う。それは丁度親がお乳を張らして、飲み手のないそれをどうにもしようのない、それこそ乳が張って苦しんでおるような姿ではなかろうかと思うた。神様はおかげを私どもがすがる、願っておかげを頂くと言う事。それが神様のお喜びでもある、又頂く者の喜びでもある。神様の心を思う時親心を思う時。その親に喜んでもらい、安心して貰えれる様な信心をです、咄嗟の時にいつでもそれが、凝視出来れる状態にあることの為にです、教えがただ聞いておるだけではない。
ただ素晴らしいみ教えであったというだけではいけない。それが血になり肉になるみ教えの整理を、心の中にちゃんとさせて頂いて、今日はこれで行こうとして、例えば普通ならこれで、もう本当にどげん腹の立ったか分からん様な事言われた時でも、腹の立つだんじゃない。本当に返って神様にお礼を申し上げましたと言う様な時こそ、教えが身についておる時だと。信心の帯をしっかりしておる時だと。信心の帯をしっかりする事は、窮屈で応えんちゅうこと、ぎゅうぎゅう締めろという意味じゃない。
言うならばお道の信者、信俸者としては当然の事当たり前の事。それをです私共が、仇疎かにしないで、怠慢な心を出さずにです、そこを実意に頂いていく生き方。そういう生き方が出来ておる時に、たとえ泥棒と言われても乞食と言われても、腹の立つ事だけではなかろうと思う。そういう時に腹を立てたり、心を傷つけられたりしたら、もう信心の無い者も同じです。そこん所を私は受けてゆく為に、頂いた教えがちゃんと整理が出来て、今日はこれで行くと言う様な物がです、心の中に頂き続けられておる。
それをお広前ではそう思うておったけれども、家に帰ったらもう忘れておったと言う様な事ではないおかげを頂く為にです。御神米を作らせて頂く要領とか心掛けと言った様なものをです。常日頃身に着けておかなければならない。それをそのまま実行すると言う事は決して難しい事ではない。どの様な場合でも一つの言葉を吐かせて頂くでも、いつも払い給えがあり清め給えがあっておって、清められたその言葉がです相手の心が傷付いておるなら癒すだろう、相手が暗い心をしておるなら明るくなるだろう。
そういう生活を私は信心生活だという風に思うです。今日は神様が見ておられるから、しっかり信心の帯をするというので、只しっかり見てござる見てござらんは別としてです当然の事。信者として当然の事としてです。しっかり信心の帯をしておるかどうかを、私は朝確かめてそして一日の信心生活を頂きたい。親神様にそれこそ乳が張って痛いというような思いをさせんですむ信心。
素直に親の膝にすがってそしてお乳を頂く時に、親も楽になり親も喜ぶ。自分達も楽になり自分達も有り難い。その辺の所の関わり合いというものがです。スムーズに出来ないと言う所に、私は教えをスムーズに頂いて現して行く。教えが血になり肉になるおかげを頂いていない事になるのじゃないかという風に思うのです。それはお初水を汲んで、朝御神米用にお供えしておいてと言う所まで。
今日は皆さん、只今の御理解で頂いて頂いた様に思うのです。是からは左手でかき混ぜながら、払い給え清め給えと言うのは、是からの一日の生活がそういうあり方にならせて頂かなければならない。そして最後の所の御神酒をかけてよく乾してからそれを入れさせて頂かれたらよろしいと言う所で、一日が終わる様なおかげを頂きたいですね。
どうぞ。